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村田亙選手引退記者会見(2007-8トップリーグ第13節:ヤマハvs東芝ブレイブルーパス戦後)
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| ミニインタビュー |
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集まった多くの報道陣から送られる大きな拍手の中、記者会見場に姿を現した村田選手。
背番号9のジャージを脱ぎ、スーツ姿で臨む会見は「ありがとうございます」の言葉から始まりました。
――まず、村田選手からひとことお願いします
村田亙選手
「僕がメジャーになったのは、専修大学3年生で初めてレギュラーになってからだと思います。そのあと、東芝で9シーズン、フランスで2シーズン、そしてヤマハで7シーズン。大きなケガもなく、無事に終えることができました。
また、今日の相手が東芝というのも何かの縁かもしれないし、本当は試合に勝って終わりたかった。でも、負けてもあれだけ大勢の温かいファンの方々がセレモニーまで残っていただき、当時の東芝の上司とか、たくさんの東芝ファンの方からも声援をいただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうござます」
――今日は微妙な点差で出場しましたが、与えられた時間でどんなことを考えプレーしましたか
村田亙選手
「出場した時は点差が少しついていましたが、1トライでもとりたいという気持ちで、とにかくいいボールを繋ぎたかったなと。チャンスがあれば持ち込んでいきたかったですね。
当然、いろいろとやりたいことは今日だけじゃなくあるのですが、とりあえず選手としては今日で終わり。今後は指導者としても、この舞台に戻ってこれるよう、勉強していきたいと思っています」
――選手としてのコンディションは
村田亙選手
「絶好調です。最後の最後で体は絶好調で、気力も体力も落ちていません」
――今シーズンは、ケガが多くなったことが自分に対するメッセージと言われていました。その中で、
こんなケガをするようになったと思う部分は
村田亙選手
「僕は体が柔らかいので、基本的に顎から下のケガについてはすぐに戻ります。それだけ自己管理をしっかりしてきたし、お前は水泳部かというぐらいプールへ通いました。そこについて、全然問題はありませんでした。
ところが、顎から上の部分については、東芝でも脳震盪の多かった方でしたが、それに加え昨シーズンは都合3回ぐらい負傷したし、そのあたりがちょっと増えだしたかなと。
あと、顎から上の部分を切ったりしたことで、僕は大丈夫と思っていても、トレーナーやドクターからストップのかかる期間が長くなってきました。ケガの箇所はメディカル陣も心配だったと思います」
――直接的に引退を決めたのは
村田亙選手
「引退というのは僕には無い、と思っていましたが、特にこの2〜3年は、レギュラーで無ければ引退しようという思いがありました。その思いを抱く中で、今シーズンは矢富が入団してくると聞き、最後は彼と勝負をしようと。また、佐藤と岡も加えての4人体制となり一緒にプレーし、それぞれと勝負して出られなくなったら引退だろうなと。
それは自分でもわかっていたし、その時点で自分の役目は終わるのかなと思っていました。一応家族の中では、今年1シーズンを精一杯やるということは決めていました。
ヤマハジュビロの山岸GMには、トップリーグが開幕してから1・2試合終わったあたり、11月ごろに伝えたと記憶しています」
――今日、ノーサイドの笛を聞いた時は
村田亙選手
「終わってしまった、もう試合をすることもないんだ、と思いましたね」
――引退ということはトップでの現役引退を意味するのか、それともクラブチーム等で続けるのか
村田亙選手
「プレイングコーチのように、教えながら一緒にやりたいとは思いますが、トップリーグでプレーすることはないと思います。クラブ大会に出る選択肢ですか、そちらへ出た方がもしかして寿命が縮むのかも、なんて。アジアバーバリアンズは出ようかなと思っています」
――これまで一番印象に残る試合は
村田亙選手
「やはり、東芝が初めて日本一になった時の三洋戦です。秩父宮も札止め満員、開始何秒かで僕もトライを取りました。初めての日本一、社会人でナンバーワンになった試合。あの試合があったから、そのあとが続いたのかなと思います」
――村田選手にとって磐田とは
村田亙選手
「フランスのバイヨンヌから来た時は、同じ匂いがすると思いました。バイヨンヌは第二のふるさとですが、ここに7シーズン住んだことで、磐田は第三のふるさとになったのかなと思います」
――40歳という年齢までラグビーを続けてきた一番大きな理由は
村田亙選手
「僕がラグビーを大好きで、ラグビーを愛していたからこそ、40歳という年齢まで出来たんじゃないかと思います。続けてこれたのは僕だけでなく、大勢のファンの支えもあり、もちろん妻や子供達の支えもありました。
みんながまだ村田亙に期待している以上、僕も続けられる限りずっと続けたいと思っていたら、いつの間にか40の大台に乗っていました」
――グラウンド脇で見守っていたご家族は、ノーサイドの瞬間に涙をこぼされていました
村田亙選手
「あの妻がいたからこそ、ここまで続けてこれたと思うし、子供達には発表の2週間ぐらい前に『パパ、今年でやめるんだよ』と言いました。でも、『何でやめるの、全然元気じゃん』と言われましたね。
けじめだからやめるんだ、ということを伝えたら、ものすごく寂しい顔をしていました。今日は子供達なりにわかっていたと思いますね。ここヤマハへきてから7シーズンの中で、我が家は、新たな命をふたり授かりました。4人の子供と妻は、これからも守っていかなければならない。そういった意味でも、これからは第2の人生を作っていきたい、そんな気持ちでいます」
――あの妻がいたからこそ、ここまでこれたというのは
村田亙選手
「彼女はものすごい強くて、フランスへ行く時も悩んでいる僕の背中を「行こうよ」と押してくれたり、日本へ戻りヤマハを選んだ時も「日本代表の為にやることも使命なんじゃない」と言われました。
それ以外に、試合前はマッサージをして針をうってくれたり、二人三脚というか、家族全員でここまでやってきたという感じです」
――ジュビロ磐田の中山選手から、今日はどんな言葉がありましたか
村田亙選手
「大体いつもは僕からメールを打つのですが昨日、久しぶりに彼からメールが来ました。『最後の底力を見せてやれ』みたいな文章だったと思います。彼は僕が入った7年前から『俺は40までやる』と言ってたんです。その時僕は『俺はそんなにできないよ』と思いました。
でも、彼がいたから、グラウンドこそ違えど、お互いに切磋琢磨しあったことで、ここまでやってこれたと思います。ゴンのおかげ、本当に感謝しています」
――お話していただける範囲で、今後の予定を
「いちおうオール専修、あるのかな。まだ話は来ていませんが出ることがあれば、本当の引退試合になるのかもしれませんし、どうでしょう。とにかく、今日が試合としては最後だと思っていました。7人制のコーチも年末にミーティングはありましたが、まだ流動的だと聞いています。
指導者としてというか、大まかなプランで言えば、僕はヤマハで選手のかたわらスポーツ財団にも力を貸しています。先週、第2回助成金制度の面接官として参加してきました。この財団はそういった彼ら、彼女らに夢や希望を与えることができる。ここまでやってきたことも踏まえ、もっとこの静岡にラグビーを広げていきたい、という計画も無きにしもあらずですが、全てはシーズンが終わってからということです、これぐらでしょうか」
――最後に村田選手からメッセージを
村田亙選手
「僕は小学校1年生からラグビーを始め、今シーズンで34年目。ラグビーで人間形成されてきたと思います。だから今後もラグビーのみならずスポーツに携わって、みんなに恩返しをしていきたい。ラグビーって、本当に痛みがわかるスポーツです。最近の子供達はテレビゲームに走ったり、なかなか外で遊ぶスペース自体もなくなってきています。だからこそ、静岡だけではなく、もっともっと全国にラグビーを広めたい。
それはタグラグビーでもいいし、タックルありのラグビーでもいい。そういうことを教えていきたい。それができていけば、未来は明るいと思います。とにかくラグビーに携わっていきながら、プロモーションや普及活動に目を向け続けていければと思います。本当に、ありがとうございます」
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